Tokyo Manouche Trinity

最近よく一緒に演奏するようになったメンバーでユニットを立ち上げました。
メンバーは以下の通り

Gt 山本大暉
Gt Nicolas Carre
Ba 今給黎久美子

バンド名はTokyo Manouche Trinityと言います。

このバンドのことを他の人に説明するとき、とても難しい問題があります、それは「取り立てて特別なことはやっていない」ということです、それは一体どういう意味なのか、誤解を避けるためにもこの文章、最後まで読んでいただきたい。

最近、「音楽は自由だ」「ジャンルにとらわれずに自由な表現を」そう言った言説が僕の周りにあふれています、ジャズ・マヌーシュ/ジプシー・ジャズの世界でいうなら「ジプシージャズの枠にとらわれずオリジナリティー溢れる表現を志向した…」こういった類の言葉があらゆるライブのフライヤー、あらゆるミュージシャンのプロフィール文章に散見されます。

これからする話は、そう言った音楽に対するスタンスの、どちらが正しいとかどちらが間違っているという話ではありません、気付いたときには驚いたのですが、僕の音楽に対するスタンスは、ものすごく少数派に属します。

個性とかオリジナリティというのは誰にでもあって、誰にも無いと考えています、言葉遊びではありません。僕は「個性」そして「音楽的な自由」というのは、一つのジャンル・様式を極めに極め尽くした後、自然と立ち現れて来るものだと考えています、ジャンゴ・ラインハルトの演奏を完璧にコピーしてアナライズする、その作業を何度も何度も繰り返し、自分の中に蓄積させていったとしても、ジャンゴそのもののギタリストが出来上がるわけはないのです、タイミングが違う、タッチが違う、何より人生が違う。それが「個性」だと考えています。

では「音楽的な自由」はどうか、この言葉はまさしく演奏者の悲願と言えます、ジャズのインプロヴァイザーの世界で言うなら「頭の中に浮かんだフレーズをすぐに楽器で演奏できる」こと、作曲者であれば「頭に浮かんだ音楽をすぐに、完璧なアレンジ・ハーモニーで記譜できる」こと、となるかもしれません。

何が言いたいかと言うと「ミュージシャンなら誰だって音楽的な自由を手に入れたいに決まってる!」と言うことです、僕がJazz Manoucheという音楽に特別こだわるからと言って、別に音楽的な自由を諦めてるわけでは無いのに「そんなにジャズマヌーシュばっかりやってると音楽性が狭まるよ」とか、結構そういうことを言われてしまう。

もっと簡潔に僕の気持ちを言い表しましょう

僕はBirelli Lagreneの天衣無縫の音楽的自由しか認めたく無い

こういうことなんです。

ちょっとボサノヴァを練習して、ちょっとジャズを練習して、ちょっとミュゼットを練習して、ライブの宣伝文句は「ブラジル、アメリカ、フランス、僕たちの音楽で世界中を旅してみませんか?」そんなスタンスがあっていい、あっていいとは思うんですが、僕のような一点集中型の人間の存在も認めて欲しい、そう思います。

さて、随分長くなってしまいましたが話を最初に戻しましょう、Tokyo Manouche Trinityはそんなスタンスが共有できる三人が集まったバンドです。

逆説的にいうと、ストレートに一つのジャンル・様式を極めることが希少となった現代日本に置いて、こういった専門的で「特別なことをやらない」バンドを組めることは特別なのです。

「個性」のことに話を戻すと、僕たちは現時点で「自分たちの個性・オリジナリティーを出したい!」という色気は毛頭ありません、Jazz Manoucheをよく研究してオーセンティックな演奏ができれば「日本で混じりっけのない王道のジャズ・マヌーシュが聞きたければTokyo Manouceh Trinityだ!」となり、それだけでとても価値があるからです、そしてその先には世界への挑戦が待っています。

まだ産声をあげたばかりのTokyo Manouche Trinityですが、既にたくさん演奏の機会をいただいています、動画もバンバンあげていきます、僕たちの挑戦をどうか暖かく見守ってください。




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